【第1期】第7回レポート 【言語美ゼミ】

2019年9月1日日曜日

開催レポート

【実施内容とレポート】

8月18日(言語ゼミ)
 13:00〜17:00 Ⅱ巻 第Ⅴ章 構成論 第Ⅲ部 劇


ちょうど地蔵盆の屋台?(お菓子やおもちゃをもらえる)が
やっているので合間に出かけていく人たち

言語としての表現が人間の観念と現実のあいだに、また規範と現実とのあいだに逆立ちした契機を自覚しはじめるまで高度になったとき、劇ははじめて完結したすがたをもった。(言語にとって美とはなにか Ⅱ巻 p226-7)

 この箇所が、今回のポイント。講座の音声より、大谷さんの話を少し長くなりますが、形を変えて再現。

 「舞台というのが現実的に生じていたのが遊女の世界。遊郭。現実的には、借金にまみれて疲れた体で浪曲の練習をしている女の人にしか過ぎない。でも、いざお客さんと過ごす舞台にあがるとまったく別の人になる。だから、そういう人たちが劇というものが成立する舞台として選ばれた。それは、そうじゃない人たちの世界。たとえば武家の持っている倫理観の世界ではなかった。こういう状況は当時の武家とか他の人達には切羽詰まったものとして、抜き差しならないものとしては存在しなかった。
 吉本は、町衆の思想と武家思想というのを対立させているのだけれど、これ例えば近松の「出世景清」。これ浄瑠璃の脚本なんですけど、阿古屋っていう女性が景清の前で自分の子どもを殺して自分も死ぬっていうシーンがクライマックスになっていて、でもこのシーンで終わるわけじゃなくて、続きがある。
 ラストシーンは当時の幕府は鎌倉なんだけどそのトップの頼朝から認められて領地も与えられて、頼朝が去っていくときに、反射的に斬りかかろうとして、すんでのところで思いとどまる。で景清は「私は平氏の武士なので頼朝様の後ろ姿をみたらどうしてもこうなってしまう。もう二度とこのようなことが起こらないように目を抜きます」って言って、目玉を頼朝に差し出す。それに頼朝はびっくりしたけども「その平家にたいする忠誠心の高さは素晴らしい、だから今度はそれを私にも見せなさい」っていて、それで終わる。
 これ普通に話として見ると、武家の忠誠心の凄さとか美しさみたいな主君と家来みたいな話になる。だから並の脚本家だったらそう書いた。阿古屋は裏切り者の密告者で済ませることもできたのに、でも子供と心中するシーンまで引っ張ってってそこをクライマックスにした。それがこの戯曲全体のクライマックスだからね。武家の忠誠心云々の話よりも、女の嫉妬の方が物語として上なのだ、ということを提示した。町衆の思想のほうが、武家の思想より勝っているとした、という吉本の読みなんだけど、これほんとにキャストとしても景清の次に阿古屋が来てる。
 でもこれちょっと油断すると景清と頼朝のシーンのほうが強いから、そっちに重心が行くはずなんだけど、全部読むと相当意識的にクライマックスを設定しているのがよくわかります。」

 これに対する、ぼく(小林)の補足
「当時現実的な、規範として働いていた武家の倫理というものと、幻想とか観念の世界としてある種崇高なものとして、そしてほとんどの場合忌まわしいものとして避けられていたような世界の価値観を逆転させて描いた、のが近松。これ書き手側の話なんですけど、劇なので観客がいて、観客側の話をすると。
 実際、遊郭にいる遊女たちも心中なんてするやつはバカだ。普通はそんなことしないよ。という感覚の中にいた、ということを吉本は言っている。けど、でもね、ほんとにつまんないことがきっかけで死ぬような目に合うことってあるよね、そうなったときにくだらないと思われても自分の意志を貫いて死ぬって、生き方として美しいよね、という感覚が潜在的にしろあったと。実際、曽根崎心中では遊郭であの心中は良かった、とかあれはいまいちだったとうわさ話をしている様子が描かれている。
 そういうなんとなくみんなが心のどこかで思っているけど、口に出せなかったり、考えるのも不潔だ、みたいに思われているようなことを近松門左衛門という劇作家が表現として形にした。この本を読むまで近松門左衛門ってほとんど関心がなかったけど、明治期の二葉亭四迷よりも、それこそ劇的に、表出の次元をガツンとそれ以前からお仕上げてしまうみたいなことを近松はやっていて、そうとう思想的な背景を持った人なんだと思うと興味が出てきた。」


 最後に少し盛り上がったのが現代における「逆立ちした契機」の萌芽としてのゲーム。ライトノベルにおける「異世界もの」のブームについて書かれたレジュメ(記載は最下部)から話題が広がった。いや、実際盛り上がったのは、ずっと黙っていたとおもった差としがおもむろに話しだしたらと思ったら15分ほど一息で話したところで、これだけでゲームというものの持つ破壊力が伺い知れる。

 現代においてゲームとは、余計なもの、くだらないもの、役に立たないもの、やっててもしょうがないもの、時間の無駄。でもやってる人は楽しい。どれだけ世間的に無駄だと思われてもやっている人にとってはそのゲームのスコアだったり勝敗が一大事だったりする。これを徹底的に自覚的した上で、表現として押し出すことができれば、それは世界にとってのなにか、になるのかもしれない。


ゲームについて書かれた本の参考はこちら。
言葉の場所・まるネコ堂(大谷隆のブログ)