【第1期】第7回レポート 【精読講座】

2019年9月1日日曜日

開催レポート

 【実施内容とレポート】

8月17日(精読講座)
 13:00〜15:30 山根澪さん
 15:30~17:30 中冨正好さん

この日は真夏の開催。裸族あらわる。

 毎回不思議に思うのですが、言語美ゼミの内容と精読講座でポイントになる部分がつながっている感覚があって、前回から言語美ゼミでは「構成論」に突入。

 前回古代詩のレポートでも少し触れてますが、人という存在が本質的に、時代や社会を超えても持っている普遍性というのは、例えば誰かのことを好きだという気持ちだったり、今回の範囲で言えば一見くだらないような出来事なのに本人にとっては抜き差しならないことが、実は生き死にくらいの大きな問題につながっている。ということ。(詳細は言語美ゼミのレポートで)

 そういうものを書くときに、そのときの時代や社会のルールや規範に縛られてしまうと、表現できるものもできなくなってしまう。つまり、書くことの一歩目(であり実は全てでもあるのですが)を踏み出せないので、通年講座では表現のテクニックや意味が伝わるかということは、(はたから見ると?)驚くほど問題にすることがありません。こういうとき、

 それじゃあ、なんでもありなのか。とにかく自分の思うようにかけばそれだけでいいのか。

 ということを、言ってみたくなるのですが、それは思考の初歩的なトラップ。どっちかだけ。こっちが正解でこっちは間違い。という二分法の甘い誘惑にはご注意を。

 とにかく書けばいい。とにかく書くしかない。と同時に、でも、ひとたび「表現者」として書こうとするなら、これまで同じように「書く」という表現に孤独に向き合ってきた先人が積み重ねてきた書くという表現の持っている歴史の厚みに向き合わなくてはならない。と、説明だけで話そうとするとわかりにくいので、精読講座より山根澪さんの文章のレビューからポイントを抽出させてもらいます。





 山根澪さんは一巡目のときから、論考スタイルで自分にとっての絵(絵を描くこと、鑑賞すること)について表現しようとしてきましたが、この場合「論考スタイル」つまり絵について「論じる」という立場をとったときに、表現者としては自動的に、必然的に「論文」「評論」などジャンルを問わず、これまで「論じる」書き方が歴史として積み重ねてきた表現の厚みを手に入れます。

 これは結果的に「論ずる」というのが辞書的に「論理的に物事を述べること」と書いてある、というのと同じことを言っているように聞こえますが、前述したような捉え方をする方がワクワクしてくる気がしませんか?

 今ある表現が結果的にルールや法則として備えているもの(たとえば、わかりやすいのは短歌等の5・7調)は、もともとは言語という地平には何もなかったところに、ある一人の表現者が孤独な書くという作業を通して小さな小さな足場を作り、また別のある人が・・・というように、歴史としては連続する無数の、けれど行為としてはまったく一人きりの孤独な表現が積み重ねてきた土台。

 「論」というスタイルをとると、「何か普遍的な物事の見方・考え方を述べようとしている」という雰囲気がまとわりつきます。まとわりつく、というとちょっと嫌なことっぽいですが、もうちょっとライトな感覚としては「なんか間違ってなさそうなことを言うっぽいな」という期待と言ってみちゃってもいいかもしれません。さらにもっと俗に、知的なかっこよさを自分の文章が手に入れちゃう、とまで言ってしまいましょう。

 で、もちろんこのかっこよさにはそれなりの代償が支払われるわけで、ちょっとでも考えが甘かったり、知識が浅いことを書いてしまうと、その一点で表現しているもの全体が崩壊してしまう、ということ。
  関連して、参考文献については、本人も感想で書いていますが、どんな人の書いたものでも引用として自分の文章の中に入れ、それについて論じられるというのは、とてもパワフルな行為で、パワフルさゆえに自分の言いたいことが引きずられてしまったりもします。そういう事も含めて、物事の本質を掴みながら、自分のできる限りの深み展開し、それがどの程度のものとして受け取られるのか、というのが論考というスタイルを取るときの面白さなのだと思います。