【第一期】自分の文章を仕上げる合宿

2020年1月15日水曜日

開催レポート

撮影 yuki kinoshita 
合宿終了直後。脱力した講師・主催と楽しそうな人たち


日程 10月28日〜11月4日 

期間中会場への出入りは自由。参加者はそれぞれの場所でそれぞれの文章をかきあげていきましたが、グループメッセージである人が執筆中のカフェの写真を送ると、ある人は自宅のベランダのを、ある人は山の山頂から、写真だけではなくそれぞれの状況がメッセージで送られてくる流れの時もあり、それがまた、それぞれがそれぞれの時間の中で書いているのだと実感するような合宿期間でした。

以下は、最終日に行った大谷と小林の対談をレポート用に編集したものです。
第一期のレポートはこれですべてとなります。

===

まずはお疲れ様でした。
全員、一応提出、ですね。

何か、小林さんありますか?


ーうん。んー。何人提出するかが、講師の通信簿なんだと、大谷さんがじぶんで言っていたので(笑)、なので、あの、良かったなと思ってます。


はいありがとうございます。一応ね、そのための講座なので。

え、と。最初1時間は対談ということにしてます。
講座を通して考えたことなんかを話せたらと思ってたんですけど、ちょっとぼくがしゃべってけんちゃんに対談ぽくしてもらえたらと思います。


ーはい。


この一年、書くとか読むとかってことをしてきた、あるいはある種人にさせてきたわけなんですけど。これ最後の合宿中、特に考えたんですけど、ずっと考えていたことがあって、今ならわかりやすく説明できる気がするんですけど、書くとか読むって不必要だなと思うんですよ。別に要らない。別に書かなくても読まなくても生きていくことができる。

で、あのじゃなんでおまえは書きたいのか、なんで読みたいのか、っていうことがあって。本なんか読んでも何の役にも立たないとか、文章なんか書かなくても生きていけるとか。そういうことに対して前は説明ができなかった。いやでも僕は読みたいし書きたいんだよね、っていうのが自分の中でうまく接続できなかったと言ってもいいかもしれない。

こういうことって、「話す聞く」との決定的な違いで、本当に必要ないんですよ。というのはあの、まず言語にとって文字っていうのは必須じゃなくて、滅んでしまったものも含めて言語全体で言うと文字を持っている言語自体がマイナー。文字があるということ自体が、人類として、人間という生物として特殊だし、不必要ということだと思うんですけど。

じゃなんで書くのかっていう結論から言うと、人間って生存するのには不必要なことを何かしないと生きていけないんだと思うんですよ。これたぶん、人によって違っているわけで、そういうようなことを それぞれみんな持っている。で、僕の場合は書くとか読むっていうことなんだな、という形で、人間観みたいな形でさっきの問に接続されるんですけど。

あの、この講座の最初に、難しい本を読んで長い文章を一つ書くって言ってたんですけど、難しい本は吉本の言語美で長い文章は二万字を目安にしたんですけど、これ、どれくらい不必要かっていうのの度合い(笑)として、たぶんね、言語美を一冊読み通した人がどのくらいの割合でいるかって言うと、周りにいないじゃないですか。二万字の文章を書いた人っていうのも相当少ない割合だとおもうんですね。

だから、なんでこんなことをやってるんだろうか、やってもらいたがってるんだろうかっていう、そういうことの説明として今言えるのは、そういうことが生きていく上で必要になりうるからっていうことなんですよ。

生きているっていう状態を2つに考えるやり方は西洋にもあって、ただ生存しているって意味の言葉をギリシャ哲学でゾーエ、人間が生きている今言ってきたみたいに生きている状態のことをビオスっていって区別してたりした。ゾーエっていうのは奴隷とか、生かされている状態。それでも生物として生きているんだけど。ぼくの言い方でいうと、人間というのは生きていくのに不必要なことやらないと生きていけないっていう、矛盾した存在だっていうことになるんですけど。


ーあのー、最近自分自身のことで言っても、生きていくために必要なことだけ、とにかく生き延びるみたいな発想になっていくと、どんどん切羽詰まっていくなと思っていて。僕の場合は、書くこととか音読とか、今ことば塾も一人生徒が来てくれて、そういうことにチャレンジしようとするときに生きている実感みたいなものが感じられる。

ま、これも言語美流に行くと2つにきっぱり分けられるものと言うより、濃淡みたいに捉えられると思うんだけど、だとすると何が自分の生きるを濃くするのか、自分でまず分かっていること。でもそれだけじゃなくて。分かっていたとしても生きていくのに必要ないから、今日はやらなくてもいい、今週はいい、今月はまだいい、来年からやろう、ってどんだけでも引き伸ばして行けてしまうんだけど、結局引き伸ばしていくうちに生きている時間が終わってしまうこともあるわけで、だから今やろう、今日やろうっていう意思が必要になってくるなということを考えたりしてました。

書くことはそういう意味ですごく象徴的で、なんでこんな大変な状況で書いたり読んだりしてるんだろうって自分で、あるいは傍から見て思ったりするけど、必要のないことをすることが必要、っていう感覚はこの一年を通して実感してきているなと。

ところで、今大谷さんは「人間にとって」、「人類にとって」、っていう言い方をしてたと思うんだけど、そうやって普遍化した言い方をするっていうのがこれまであんまりなかったなとおもって、そのあたりもう少し聞いてみたいなと思うんだけど。



最初はあの、やっぱり本なんか読んでてもしょうがないとか、小説なんか特にそうだけど読むことなんか役に立たないんだ、っていうのが。これ誰かに言われたわけじゃないと思うんだけど、そうだよなって思いながらもどうしても納得ができないっていうのがあって。

文章を書いたって本当のことなんか書けないんだ、書き表せないんだ、っていう言葉に、そりゃそうだよって思いながらも納得がいかない。ぼくは文章にまつわることだけど、テニスやってる人ならテニスについて、音楽やってる人、山の仕事をしている人、魚屋なら魚屋、これたぶん誰にでも当てはまることだと思っていて。

自分にとってわざわざやっていること、やりたいことっていうのは、基本的に人間が生物として生きていくことに対して、ほとんど必要性がない、っていう事態に陥る気がする、けどそれでそのことは重々わかっているけど「そうですね、やめます」とは言わないよ、っていうそういう感覚があって、こういう感覚って普遍的な感覚じゃないかと思っていて。

もちろん哲学的な、、。ほとんどの哲学書はその差異を埋めようとするっていうか、人間性、人間であることの根源性を哲学っていうのは突き詰めるんだけど、そのとり方の違いなんじゃないかな、と思う。時間なんだっていう人がいたり、存在なんだっていう人がいたりするんだけど、でも結局同じようなことを言おうとして、今言った「納得のいかなさ」のことを言おうとしている感じがする。

人間に不必要なことは必要ないんだって言い切れたら威勢がいいよね、とはおもうんだけど、でも本当は言い切れない。言い切ったとしても気分が悪いはずで。本なんか一冊も読まなくても生きていけるよって。でも、「いやでもそれでもね」っていうのが僕の根拠になるっていうか、言い切れてそのとおりだって飲み込めちゃう人はちょっと信用出来ないっていうか「本当にそうなの」って思ったりします。


ーそういう気分みたいなものってさ、どのくらいの時期から始まるのかなって思ってさ。今ことば塾に来てくれてる中学1年生の子と話していたらさ。例えば何をしていいのかわからない、何が好きわからないみたいな気分、みたいなもの、をさ、わかる?って聞いたらわかるって答えてくれて、分かるんだ?!ってなんたんだけど(笑)

まさに今、彼らは学校の中でそういうものに直面しているんじゃないかと思って、例えばテストっていうのがわかりやすいけど、テストで点を上げるために必要ないことなんてたくさんある。こんなことをしていても意味がないんじゃないか、とか、気分としてはもっと小学生くらいからあるんだろうけど、中学くらいになるとわかりやすくあるのかなって思ってさ。

そのとき僕が言ったのは、そういう気分はほっとくと、ちゃんと見つけようとしなければ、あるいは見ようとしなければ、さらにやらなければ、おとなになってもあるんだよ、死ぬまであるかもしれないんだよ、って言ったときに、ちょっと切実に受け止めてくれている気がして、これは僕自身の切実さでもあるんだけど。

普遍的って聞いたのは、大谷さんにとっての切実さみたいなものにも興味があるのもあったんだけど、ある種、現代の中ですごく深刻な現象の象徴みたいなことを言うなと思って、生きていくのに不必要なことが、実は本当に生きるということに必要なんだ、っていう。これって現代的な、だれもが直面するようなことだなと思って。



なんかね。その、この講座やろうと思ったときくらいからかな。そろそろポジションを取らないと行けないと思った時があって、それまでは僕は僕であればいいだけなのでそんなに困ってなかった。それでいいやって思ってたんですけど。

ま、子どもが生まれたとかそういうことも関係してるのかなって思うんだけど、あの、不必要なことだって必要なんだよっていうことって、全然当たり前じゃないんだけど(笑)、言わんとしていることはごくごく当たり前のことで、わざわざ言うようなことでもないんだけど、これまでは「わざわざ言わなくってもな」って思って言わなかったフシがあったのですが、やっぱり誰かが馬鹿みたいに言っておくっていうことが重要なんじゃないかと思うようになったんです。じゃないと、なんていうかな、割り切られてしまう。

ほんとにその、威勢が良い言い方とかで割り切られてしまって。ぼくのそれまでの感覚だと、「いやいやでも、これはこの場限りのことで、本当は割り切れないってみんな知ってるよね」って。そういう感じでいたの、「10は3で割り切れないって、みんな知ってるけど、だいたい3ですって、言ってるだけだから、3.33333・・・ってなってるってことはみんな知ってるよね」って思ってたんだけど、どうやらそれが3になりつつある。っていうか、割り切られてしまうみたいな感じを思うようになって、いやこれ割り切れませんよって誰かがいっておかないと、本当に割り切れちゃうようになるんじゃないかって、思うようになって、そういうのでポジションを撮ろうと思ったんですよ。

だから本を読むことは大切ですよ、とかすごいバカみたいなことを(笑)、文章を書くことは素敵なことですよって、これバカがいうことじゃんっていう(笑)。これまで言ったことないよそんなこと(笑)。でももうそろそろ聞き流してられなくなってきたっていう感じ。

だから普遍性みたいなことが気になるし、言うんだったら普遍的に言わないといけないっていうか、それこそ僕が勝手に割り切ってることになっちゃうから。その場限りで無理やり僕が割り切ったっていうふうになっちゃうから。そうしたくはないなって。まあやってみたら、その位置を保ち続けるっていうのは意外と大変で、そのへんが通信簿っていってたやつ。やっぱ書かなくていいじゃんってなる、と思うんですよね。大変だし。でも、そうならないようにがんばってきたので、どのくらいの人が書いてくれるのかなっていうのがありました。

(後略)


このへんからじゃあ、座談会にします。
あ、そのまえにちょっと休憩。10分くらい。


ー結構いい時間になってたね。はい。では休憩で。