【第一期】第8回+追加回 精読講座

2019年10月22日火曜日

開催レポート


9月21日(第8回)
 13:00〜15:30 中尾聡志さん
 15:30~17:30 木下さん

10月12日(追加回)
 13:00〜17:00 中尾聡志さん 

精読講座は9月で2巡目が終わり、10月の予備日に追加でもう1講座を実施しました。

 前回は提出された文章が論文調だったわけですが、今回は追加も含めて小説スタイルづくし。僕の場合、どんなに短くても「小説を書いた」という人がいたらちょっとびっくりするというか、「自分にはできそうもないことをした人」という感じがします。
 でも二人を見ていると「小説」というものを書こうとして書くようになったわけではなく、最初は日常の出来事を日記風に、あるいはエッセイ風に、ときには散文の詩のように書いていて、一つの部屋から次の部屋へ移動するようにスッと小説という形式で書くことを始めたように記憶しています。

 そしてこれは精読講座をしていく中でよりはっきりとしてきたことですが、小説という形通すことで書き手が書こうとしている「なにか」がよりリアルに読み手に伝わったりすることがあるということ。意図的に小説のような形式を選ぶ場合には、登場人物や場所、起こる出来事は実際のものとは全く違うのに、「実際」とか「事実」を超えて伝わってくる書き手の「なにか」。終わったあとには僕は自分も小説を書きたいな。という気持ちになっていました。

 そういえば、これと似た話をどこかで書いたような、と思ったら第二回目のレポートで書いていたのでちょっと引用してみます。
「言葉にしたら別のものになる」ってさっき書きましたけど、ある意味本当にその通りで、もうあの体験自体は、あの時間と場所でしか起こりようがないので、言葉になるのはいつだって現実とは別の「なにか」なんだと思うんです。で、ぼくが書ける「なにか」は、ぼくの中にある「なにか」なので、結局がぼくの中のなにかを注意深く丁寧に目耳を凝らし、澄ますしかない、というかそれだけなのかな、と。

 二人の文章から伝わってくる「なにか」は感動的とか心が動かされるという類のものではなくて、その文章に流れている雰囲気と例えばそれを象徴するようなセリフ(会話)が醸し出すちょっとユーモラスででも淡々としているリズムや色合い、だったりします。あるいは、自分にとってある人がどんな存在なのか(好きだったり、近かったり遠かったり、羨ましかったり)という形になりきらないものだったり。

 前回の講座も踏まえた上で今回を振り返ってみると、膨大な知識量によって言いたいことの輪郭を刈り込んでいき、結晶化させる(あるいはデリダのように結晶化が不可能な領域をなぞる)のが醍醐味の中心にある「論」と「小説」という形式の違いが以前よりはっきりと分かって来た気がします。
 当たり前のようだけど、書くという行為の中で2つはバツっと分かれてるんではなくて、何かを表現しようとする最初にはまったく未明の中にあって、書かれていくと同時に決まっていくもの。あるいは書き続ける中でどんな形式が自分に合っているとか、書きやすいなということが分かるものとしてあるんだなと思います。

 やっぱり書くって面白い。