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2019年4月25日木曜日

【第1期】第3回レポート その二

 講座の安定期?に入ったため、小説レポートは1エントリーで収まったのですが(ケンカや波乱がなかった)、結局こちらのレポートが2つにまたがる文量になり、一回ごとに3つのレポートという体制はキープしたままお送りしております。

さて、今回精読講座に文章を提出したトミーさんとみおちゃんが感想を書いてくれてます。(トミーさんの方は「講座の前に」という提出前のことを書いた記事も。)


その名も「とりあえず書いてみる」というブログ



人のブログに自分の名前が出るって嬉しいです。

 それぞれの文章を引用しながら何かを書こうと思っていたのですが、主催している講座についての感想を、自分で切り貼りするというのがどうもしにくい、というよりできる気がしなくて、何が書いてあるのかは直接読んでもらうとして、それを読んだぼくの感想。
 つまり、自分の文章をバカ丁寧に読んでもらった感想を書いた文章をバカ丁寧に読んで感想を書いてみる、ということです。ぶふふっ。

 まずどうやら、自分の文章を持ち込むことが決まる。ということ自体が、書くことにけっこうな影響を与えている、ようです。トミーさんのように「とりあえず」「軽い気持ちで」出すというのと、みおちゃんのようにスケールの大きいものを書けるところまで書いて、読んでもらうところも決め撃ちするように(つまり用意周到に)出す、というのは、起こっている現象としては真反対の方向感を持ってますが、どちらの場合も結果として一つの文章が書き上げられます。

 こういう、どんな状況で、どう思って書いたか、という背景は文章として読まれる段階になると剥がれ落ちて、原理上読み手に伝わることはありません。でも、トミーさんの文章に妙な軽やかさがあったり、みおちゃんの文章にレンガを積むような確かさがあったり、文字の前提に沈み込んだ書き手の背景は、一番底の方でその文章の脈流を作っているなと思います。

 もちろんこれ良し悪しというより、書くという行為の自由さを表していて、それが読む体験にどうしようもなく響いてくるということ。このレベルになると、自分でどうこうしようとしても、どうしようもなく自分の書き方というものに触れてくる気がしていて、それをぼくたちは文体とかトーンとか呼んでいるのだと思います。

 トミーさんが「生前葬」といい、みおちゃんが「いくらおもしろがってもらってもひとりだ」というのは、こういう位相で読まれる体験のことを指していると思っていて、間違いなく自分が書いた文章にもかかわらず、書き手の自分でさえ自由に入れ替えたりさじ加減を調整できないような領域が、書くという行為の根っこにあるのだと思います。

 何を書くか、どのように書くか、というのは、実は書くという行為の中ではずーっと最後の方に問題になる領域で、言葉にしたいなにかがあるけれど書けない、というときに本当に問題になっているのは、「どんな世界で書くか」ということなのだと思います。

 言語美には、「その人の意識と世界の関わり方の固有性」という言葉が書かれてますが、まさにその人がどんな世界を選びとって、そこでどんな表現をするのかを読み解く(ことになる)というのが、読む方にも読まれる方にとっても精読講座が面白い理由なんじゃないかなと思っています。


次のレポートはこちら。
これまでのレポートも併せてどうぞ。
第1回レポート

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