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2019年3月6日水曜日

【第1期】第2回レポート

メイン会場。なんだけど、なぜか雰囲気がカラーテレビを見に集まった人たち。

【開催日】
2019年3月2日(土)、3日(日)

【会場】
まるねこ堂

【集まった人】
通年講座受講生6名(うち4名は遠隔でのビデオ通信、そのうち1名は体調不良のため基本的に音声を聞くのみでの参加で、ときおりビデオ通信でやりとり)。大谷、小林、なっちゃん(小林のパートナー、子守や料理等のお手伝い)と伊吹(一歳半)。新くん(大谷の息子)。みおちゃん(大谷のパートナー)は参加者として出席。

【実施内容とレポート】

・一日目(3/2)
 13:00~13:30 ミニレクチャー
 13:30~16:00 精読講座(1巡目) 一人目(さとし)
 16:00~18:00 精読講座(1巡目) 二人目(木下さん)

・二日目(3/3)
 13:00~17:30 「言語にとって美とはなにか」講読ゼミ 第二回

オープニング的な位置づけだった1回目から今回は、通年講座の本編に突入といった雰囲気。もう、本当に面白くて、盛り上がりました。これを言葉にして伝えるなんてとてもできないです。以上。

と言いたくなる第2回だったんですが、流石にそれじゃ怒られそうなのでもう少し粘ってみます。

・・・

えー、ところで、中身が充実していればいるほど後で言葉にしようとするとしぼんでしまうことってよくありませんか?ぼくはとてもよくあります。個人的な体験談でも、ましてレポートとして書くとなると、何をどう言葉にてもカスッカスのパサッパサ、一週間放置したパンのように味気ない、っていうかそれカビ生えてない?食べれんの?って思った日にはもう一言だって言葉にしたくもなくなって、自分の心の中だけに大切にしまっておこう、なんて思ってしまいます。

「書く講座」を始めたのはこういう「言葉になんてできねーよ!」とか「言葉にしちゃったらそれはもう別ものだよ。フフ。」とか、言葉がまったく無力で虚しいものにしか思えないような感覚。それとは裏腹にぼくの体に生々しく脈打つように残っている豊かで瑞々しい体験。この二つの間にある越えられない壁というか崖というか溝というか、なんでもいいんですけど、それをどうにかして越えられないものか、それでもなんとか言葉にすることはできないだろうか、という想いが原点でした。

で、これ今、どうにかこうにかではあるけどこうして書けちゃってる。何にも言ってないけど、それでもここまで読んで第二回目が「言葉にできないなにか」だったんだなって、それも結構ななにかだったんだろうな、ってなんとなく伝わってきたりしませんか?ん?ああ、そんなにはいない。まあ、いいんです。どのみち言葉にすることさえ危ぶまれたことが、ごくわずかでも伝わる人には伝わる程度に書けているなら、その場に来なければ絶対に体験できないような何かが、切れ端でも届くなら、それだけで御の字、儲けもんってやつです。

とはいえそれだとやっぱり悔しいなって思うので、ちょっとトリッキーな上記の感じと違う、正攻法での紹介なんかもやってやれないことはないんじゃないかなんて、やってみようじゃないかなんて思ったりもするわけです。

ということで冒頭のミニレクチャーの様子を少しのぞいてみたいと思います。


今回は(も)半数以上が遠隔参加


「これ精読講座、っていって、今日からやるんですけど。前にやってた『「読む・書く・残す」探求講座』のアップデート。アップデートと言ってもやることは変わらないんだけど※1、で。ずっと「書く講座」「書く講座」って言ってたんですよ。でも文章持ち込んだ人はともかく、まったく書いてない。読むだけっていう講座で(笑)。
それがなんで「書く講座」になったかというと、もともとが「じぶんの文章を書く講座」という名前だったからで、先祖返りしてるんですね。でもこれそれだけじゃない、必然的な説明の仕方ができるなと思ってます。

 で、あのー。ぼくずっと大学みたいなことがやりたかったんですよ。でそもそも大学ってどういうとこなのかというと「難しい本を読んで長い文章を書く』ところだと。これ最近人が言っているのを聞いたんですけど、なるほどって思って。ぼく理系だったので、ぼくにとっての理想の(文系の)大学ってまさにこれ、なんですね。実際どうかはしらないんですけど(笑)。でもそういうことをやりたいなと思っていて。
 
 この通年講座では言語美を読むんですが、これが「一冊の本を読む」こと。で最終的にはみなさんには「長い文章を書いてもらう」んですけど、この精読講座が「書く講座」と呼ばれていたのはそういう意味で、実は読むだけしかしていないように見えるこの講座が書くことにものすごくつながっていて、この精読講座をやっていって一つの文章を書くという仕立てになってます。

 精読講座での読み方は、これが正しい読み方だとか、読むことの原点とかいいたいわけじゃなくて、まあいってもいいんだけど(笑)。読むっていうこと自体が本当に広くて、こういう場所もあるよっていうことです。で、この読み方に決定的な特徴が一つあるなってようやく思えるようになってきて、これはもともとぼくが編集者だったっていうことに起因するんですけど、書く人に対してものすごく影響を与える読み方、ということです。だからこの精読講座はそういう場所、ということになります。

ただ読んでるだけなんだけど、書くことに重心がいく。だから書く講座って呼ばれているんじゃないかと思います。そうじゃない読み方が悪いわけじゃない。読みたい本を読んで面白いところだけ探して読むのもだめじゃない。けどこれはそんなに書き手に影響がいかない。そういうふうに読むのではない、なにかを探して読まれないがゆえに、書き手にとって重大なことが起こる。そんな場所なんじゃないかなと思ってます。

で、大学が難しい本を読んで長い文章を書くところだとして、いきなり「この本を読みなさい」とか「はい書きなさい」といってもできない、大変だと思うので、サポートするというか必然的に生じるものとして講義というものがある。講義は英語でレクチャー(lecture)って言うんですけどラテン語の読むという言葉がもとになってて読むこと。フランス語でもレクチュール(lecture)は読むことなんですけど、つまり、講義って本を読んだ人が本の話をすること、もともとそうだったんじゃないかと思うんです。

〈質問:書き手というのは?書いた人のこと?読む人自身?〉

今言ってた影響は直接的には書いた人のこと。でもそうそう。読む手にも影響する。この場所自体が書くことに影響していく。だからこれ、本当に読んだり書いたりだけの話で、読んだことを話して、それを聞いて自分も読んで書く、みたいな、そういうことをやる場所としてこの通年講座があります。

※1
やること自体は変わらないけれど、アップデートされているのはやることではなく参加する人が通年で講座を受け続けるという構成で、自分が読むことで自分自身の書き方が影響を受けたり、別の書き手が大きく影響を受けたり、ということが幾重にも重なった影響の乱反射の中で、一つの文章を書いていく、という大学的な「書く」という行為や体験そのものが土台から変わってしまうような場所を創り出すことを狙っている。 」

 
はい。以上です。
これ註までつけてるので丸わかりですが、当日話したそのままじゃありません。細かい言い淀みを省いたとか言うレベルじゃなくて、端折ったり、話を入れ替えたり、編集してます。でも、今、ぼくが講義で話されたことを書くのなら、こうとしかならない形として書いてます「言葉にしたら別のものになる」ってさっき書きましたけど、ある意味本当にその通りで、もうあの体験自体は、あの時間と場所でしか起こりようがないので、言葉になるのはいつだって現実とは別の「なにか」なんだと思うんです。で、ぼくが書ける「なにか」は、ぼくの中にある「なにか」なので、結局がぼくの中のなにかを注意深く丁寧に目耳を凝らし、澄ますしかない、というかそれだけなのかな、と。

とはいえ、当日のことを記録する、記憶する、刻み込んでいるものもあって、文章とか音声データとか、そういうものを一切使わなければ冒頭のように、フル活用すると今のようになる、ということなんだなと、今こうして書いていて発見しました。こうなると、ここから精読講座に入っていっても、書きようが大いにある気がしてきてるんですが、既にかなり長いので今回はここまで。


大量のレジュメたち。

言語美ゼミについては、レジュメを見てもらえれば、その盛り上がりが伝わるのではないかと思っていて、まずなにより文章量がすごかっったです。長けりゃいいってもんじゃないけど、みんながみんなそれぞれの書き方を探って、「これでどうだ!」と勝負しているような雰囲気もぼくにはあって、その中で勝手に負けたとか、手応えがあったとか勝手に思ったりしている雰囲気があります。

落語あり、自作の図表あり、ミニ評論あり、小説風あり、色とりどりの文章をぜひご覧あれ。これ本当に同じ本の同じ場所を読んで、同じ講座に集まった人が書いたんだよね??

言語美ゼミのレジュメはこちら

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