【実施内容とレポート】
10月22日
13:00〜17:00 Ⅱ巻 第Ⅵ章 内容と形式、第Ⅶ章 立場
ついに最終回。
最終回ではあるけれど、言うべきことはほとんど前章までで出尽くしていて、最後の整理、あるいはここまで書いたことを閉じるために書かれた箇所。
精読講座も言語美ゼミも毎回最低一回は録音した音源を聴き直します。毎回自分が話した箇所が面白くってそれを楽しににしているところもあるのですが、今回のは自分が話している箇所にそれほど面白さを感じなかった。
不思議すぎて聞き返してみると、流し聞きしていた(すいません、だって長いんです)自分以外の人が話している箇所が俄然面白い。レジュメの発表なんてひどいときは飛ばしていた(本当にすいません)のに、いつのまにこんなにみんな面白いことを話すようになったのだろう。
「ぜんぜんわかってないんだけど」とか「読めてないんだけど」というエクスキューズをつけてはいるけれど、みんなそれぞれが自分なりにこの本を読んだ体験について、この難しい本とどう関わったかについて語っている。
ゼミの全体を通して思ったのは、ぼくが感じていることはぼくにしか感じられないことだということ。あるいはこう言ってもいい。ぼくが言葉として表現することは、ぼくにしか表現できないことだということ。
いや、もちろんこんなの当たり前の話だけど、これがとっても大事なので大真面目にこうして書いておきます。読むことが「体験」だというのはそういうことで、これ読むだからわかりにくいのかな?例えば、ある晴れた日、朝起きて窓を開けたときにフワッと風が吹いたあの感じ。同じようなシチュエーションでもその、あの感じ自体はぼくにしかわからないし、さらにそのときフッと思い浮かんだこと、なんかがあればそれを言葉にできるのははっきりと世界中にぼく一人しかいないと断言できる。
そういうレベルで、読むこととか書くことというのは体験であり、でもそれを書くかどうか、表現しようとするかどうか、というのは今回の箇所で言えば「契機を掴む」ということなのだけれど、僕にしかかけないことを表現する契機を掴むかどうか、それだけが表現者とそうでないものを分けるんだ、と吉本に言われている気がしてゾクッとする。
「本人不在なのに吉本隆明とめっちゃ話した気がする」とさとしが言っていたけれど、表現されたものがその人であればあるほど、そういうことがごく自然に、当たり前のように起こる、のだと思う。
ぼくも、そういうものを書きたい。
残すところ、この講座も最後の合宿だけになった。
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