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2019年8月2日金曜日

【第1期】第6回レポート 【言語美ゼミから精読講座へ】

精読講座終了後 絵本を読む人と聞く人たち

 今回は趣向を変えて、当日の録音データを聞き直して残ったものを、時間軸的には逆転する形ですが、ゼミから精読講座の方へつなげながら、書くことや読むことについてかいてみます。



 たとえば、今回のゼミでは日本書紀や古事記に載っているような詩を読む。

なづきの 田の稲幹(がら)に 
稲幹(がら)に 這い廻(もとほ)ろふ ところづら

 言葉にされたものが「分からない」ことについては、すでにゼミでは触れてきていて、この場合は現代では使われていない言葉(死語)がたくさん入っていて、まずそこが「分からない」。

 吉本隆明によれば、
 そのままでは〈ちかくの田の稲の茎にからまっているところ葛〉という意味のほかになにもないようにみえる。でも稲の茎にまつわる葛のように、まつわりつく恋の情感、あるいは人と人のあいだの情感を唄ったものにちがいない。
「ちがいない」って、なんで?と思っても、この詩についてはさらっと説明されて終わってしまう。「ちがいない」と言われると確かにそんな気もしてくる。わからないから他の部分を先に読んでみても、直接なにか分かるわけじゃないけど手付きの確かさは伝わってくるから、まあ、やっぱりそうなんだろうな、ということでそのままにしておく。

 こういう、自分で詩を読んでみたり、吉本の解説を読んだときの、「分かるような分からないような」という感覚がとても重要だと思う。はっきりと意識が理解する以前の、まだ未分化な、体と密着して離れないある「感じ」そのもの。書くことや読むことの根っこがそこにある。本質とか真理とかじゃなくて、読んだり書いたりが面白くなる源のようなところ。

 ゼミではまずぼくが謡った。

 え?

 いや、ぼくが謡いました。

 は?

 今こうして書いていると信じられないというか、普通に考えてなにそれ?っていうことだけど、録音された音源では、たしかにぼくは引用されている古代詩を、ただ文字を読み上げるだけでなく、節をつけて、長さや声の高低を交えて謡っている。

 ぼくにとっては古代史の音読をするとこうなる、としか言いようがなく、悪く言えばただ「それっぽく」謡っているにすぎないのだけれど。背景で、伊吹が積み木か何かで拍子をとるように叩いているのが聞こえて、それなりの「それっぽさ」ではあるみたいだった。

 古語で、古い古文書に書かれた詩、なんていうと遠いけれど、筆記具もない時代に書き留められるほど謡われた詩(うた)。だとすると、要はこれは「J−POP」のように読めばいい。と大谷さん。

 え?

 たとえば「あなただけの花を咲かせよう」という歌があって、意味だけを見れば園芸について書かれてておおかしくないけど、絶対そうじゃない。個性とか、一人ひとりの存在の話をしているなって、思うでしょ?

 「ベッドから丸い月が見えるよ」ってきて「公園のベンチから月が見えたよ」ってきたら、天体観測の話じゃなくって、恋の歌だねって、ピンとくるでしょ?

 ヒットソングっていうのはその時代の一番ピントがあった言葉が使われているので、その時代に生きている誰もが、歌われているのがなんの比喩なのかっていうところまで分かっちゃう。まあ、今だともう「あなただけの花を」というのもちょっと古い感じになってるけど、そういう感覚も込で、同じ時代の同じ社会に生きている普遍性っていうのがある。

 だから、田の稲になんかがからまっている、ときたら、これは十中八九恋だね。っていう感覚が当時の人にあった。歌っていうのはほとんどがラブソングだから。まあそうじゃなくても、わざわざ詩として書き残すってことは、人と人の間のなにかを謡ったことに間違いはない。っていうのは、まあこう考えると普通のことだと言っちゃっていいと思う。

 こういう人としての根本的な、というか本質的な、というか。言葉でなにかを表現するみたいな根っこの部分というのは、時代を超えても共通していて、もちろん社会を超えても共通していて、さっきの意味の普遍性とは全く別の普遍性を持っている。

 そうそうぼくが大事だと思っていたのは、意味が分からないのに何かが伝わってくるという現象のことで、それは社会とか時代を超えて、一人の人から一人の人へと、直接にやってくるもののことだ。さくらさんの文章を精読講座で読んだとき、その話をみんなしていたのではないか。

 だからといって、さくらさんの文章がわかりにくかったわけではない。むしろ、書かれている内容とか、その衝撃度としては普通に目を引くものだった。それなのに、妙に体に残っていくのは、ちょっとした助詞の使い方とか、流れていく言葉のリズムやテンポだった。少なくともぼくにとっては。 

 ある人が根本的に持っている表現したいものというのは、同じ時代に生きていてもそのすべての意味を汲み取れるものではない。汲み取ってもらうことを期待することもできない。言いたいのは「あのときのあの場所」のことそのもの。その全体。だけど、そんなものを再現できるはずがない。だから自分の中で、表現として、全くはじめての体験としての「あのときのあの場所そのもの」を作り出さなくてはならない。

 これは自分の幻想の世界で現実を覆うわけでもなく、現実の世界に自分だけの世界が流されてしまうのでもなく、自分が表さなければ流され埋もれていく自分の中にだけある手応えを、現実の世界に杭を打つように直行させることなのだと思う。

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