お昼寝中の伊吹とあらちゃん。と横にいるなっちゃん。 |
・一日目(5/18)
13:00~15:00 精読講座(1巡目) 1人目(かなちゃん)
16:00~18:00 精読講座(1巡目) 2人目(さくらさん)
・二日目(5/19)
10:30〜12:00 言語美ゼミ 補講(1〜3章のまとめ)
13:00~17:30 「言語にとって美とはなにか」講読ゼミ 第四回
今回で精読講座の一巡目が一回り。次回からは二巡目に入るちょうど折り返し地点となります。今回は以前からやってみたかった精読講座のレビューを、当日の録音をもとに、レポート用に編集して再現する、という形でお送りしたいと思います。
一人目の精読講座はかなちゃん。自身が妊娠中ということで、自分が妊娠している経験自体が書かれたもの。妊娠中にこの講座に来ようと思って、実際に参加していること自体、すごいことだと思うのですが、それが文章になるというのはさらに奇跡的なことだなと思います。
「えー、と。もうほとんど言われてしまったので(講師のレビューは毎回最後にやっています)、全体的なことを言おうかな。
えー、とまず、最初に感じたのはゆっくりとした感じということで、もう少し言うとクッションの効いている感じ、がします。なんていうんだろう。いろんなレベルでクッションが効いているというか、語りの調子みたいなものなんですけど。
もう一つすごく大きい印象なんだけど、表側から書く立場が徹底している。明るい側を書く人なんだなと言う感じがします。だから全体的に明るい感じがする。書かれているのは妊娠の話なので、いろいろ戸惑いとか不安だったりあるんだろう、というかそういうことも書かれてるんだけど、そういうこともあるけれども〜〜〜、という感じで直接的に書かれていく感じではないのが印象的です。
参加者:クッションて何?
たとえば、口調でいうと「だったかなー」とか。「横になりたいと思ったら横になり、食べたいと思ったら食べ」という部分。つかっている言葉も、「もどかしさ」とか「言い表わせなさ」っていうのは、柔らかい印象があります。エクササイズ用のゴムボールみたいな。押せば凹むんだけど跳ね返ってくるみたいな。分かるかな?柔らかさと言うよりクッションのある感じ。
もうちょっと言うと、神秘という言葉もそうで、神秘は言葉に出来ないというのは、言葉では表せないものを神秘という、ということになるんだけど、ガチーンと閉じた神秘じゃなくて、柔らかい感じがします。あんまりそういう風に神秘という言葉をイメージしたことがなかったのでびっくりしたんですけど、ここでは乱暴に扱うと壊れてしまうようなものを神秘と言っている。さくらさんがまだ語られていないものを神秘と言う、と言っていたのは的確だなと思いました。
それで、当然なんだけど、未然の雰囲気がずっとある。出産という意味でも、文章自体が未完という意味でも、神秘がまだ語られていないという意味でも。そういうことに対して探っていく手付きみたいなものが全体にあって、それがクッションみたいな、柔らかさとか跳ね返ってくる感じとして表れているなと思います。
たとえばこれが、強く閉じている神秘観だったら、出産という出来事は外に出ようがない、触れられないものとして扱われるんだろうなと思います。その場合は絶対に、とか永久に、という言葉と一緒に語られる気がします。
そういう神秘観もあると思うけど、ここでの神秘は触れる。でもここまででは、神秘そのものの話というより、その手付きをなんとかしようとしている段階。上手に触らないと壊れてしまうものに対して、これからどうやって触っていくか、を探っている感じがします。そしてそれは、開いて明るい所に出すことによって達成されるような予感があります。
はい。以上です。」
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二人目はさくらさん。心身の不調によって引き起こされた体験を書き留めた文章は、その体験自体は壮絶とも言ってしまえるほどなのだけど、一つの世界観が鮮やかに描かれていて、作品として読み手を惹きつける魅力を備えていました。
「はい。じゃあいきます。
えとー、そうですね。あるしんどい状況について書いてあるんだけど、そのしんどいのをなんとか支えている、支えて釣り合わせている感じがします。ただ、かなりしんどいので、水で言うと水深のかなり深いところで釣り合っている感じがします。
そういう水深の深さみたいなのは、最初の二段落くらいで決めている感じがします。
たとえば冒頭の「わたしというのは」という距離のとり方。それから「自分をごまかすとか逃げることも」と沈んでこうとするのを、「好きでしている」という言葉で釣り合わせたり。「そうはいっても向き合わないといけない」と浮上しかけるのを、「どちらにしろ〜〜〜そうはいかない」という感じで、沈み過ぎそうになるのをなんとか浮かべて、浮かび過ぎそうになるのをまた沈めるめるという感じで、ある水深をどうにか保っていく、感じがします。高い圧力の世界。深海魚の世界みたいな、世界観がこの出だしで決まっていると思います。
それを支えているのがなんだろうなというのがあるんですけど、先にいきますね。まず、高い圧力なので、通常の人間の動きができないというか、人としての自我が保てないようなところがあって、自分が縮退していく。自分が縮んじゃってるから、たとえば自分の手が、自分の体の一部であるはずの手が、自分自身の輪郭の外側にいっちゃっている感じになってる。これを、「もうしょうがない」と、「道具として使い物にならないな」とまず思ったっていうのは、ぼくもびっくりしました。
そういう風に、自分の領域を狭めていかないといけない状況がリアルに書かれている感じがします。もっとも縮退しているのが、食べ物のところで、人間を管としたら、管の内壁だけ、というところまで縮退していて、こっからもう一度膨らんでいこうとするんですけど。この描写の中で「体にいいとか悪いとかというのは本当だったんだろうか」という言葉が差し込まれるのは、強烈な皮肉にもなってるし、ちょっとこれはすごいなと思いました。
そういう圧力の高いところでいくので、当然世界が歪むような描写になるというのはリアル。なので、文章とか言葉が屈折する、というのはこれ、もともとこの人はこうなのか、そういう箇所がたくさんある。
「大丈夫時間が経ちますよ」というセリフは普通言わないし、「言葉はありがたかったので、薬は捨ててしまった」は、ありがたかったけど、とならずに、つながりが屈折している感じがします。文章レベルでいうと、「今度余裕があるときに理由を見つければいい」というのも、ふいに涙が出てくる状況で、差し込まれるのが屈折している感じがします。
だから読み手はみんな、そういう言葉にフックされていくんですけど、これ幸運と言っていいのかわかんないけど、そういう言葉がチャーミングに機能しているなと思います。
地味なところで言うと、「にょとみえた」。これ「つ」を入れようとして抜けたのかもしれないけど、読みにくいけど、文字としてはこの状態がいいなと思ったりします。それから、「やっぱり圧倒されて」、「やっぱり今わたし」、その何行か下にも「やっぱり」があって、これだけ出ると整理したくなるんだけど、そんなに変じゃなく読める。
で、こういう表現をなにが支えているのか、どうやって支えているのか、ということなんですけど。主人公としての「わたし」を、作家としてのわたしが書く、ということによって支えている感じがします。だからこれ、書いてる人は体験談として書いてるわけではなくて、作品として書いている、だろうと。
文中の「わたし」は、こういうふうにしか存在できないわたしっていう、気がします。どこかにモデルが合って、それについて「わたし」を登場させて書いてるというより、この文章中にこのような形で出てこないと支えきれない私という感じがします。緊張感あるなと思いました。
はい、そんなもんかな。」
次のレポートはこちら。
第4回レポート その二 言語美ゼミ編第1回レポート
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